龍兄貴に大切に育てられて、四仔より黒社会を知らない信一の話【くうになる】
俺にとっての黑社會とは、イコール、祖哥哥が率いる「龍城幫」のことだった。外の世界では生きられない流れ者たちを受け入れる最後の砦・九龍城砦を守護する、強く頼もしく、警察さえも一目置く存在。
ここでは賭博も薬も売春も暴力も日常のなかに当たり前にあったが、どれも「龍城幫」が積極的に関与することはなかった。祖哥哥いわく。
「他の生き方を知らない、生き方を簡単に変えられない者もいる。城砦はどんな者も拒まない。もともと法の及ばない土地だ。揉め事を引き起こさない限り好きに過ごせばいい」
揉め事の基準は外とは大きく異なるものの、住民は概ね龍頭のこの方針に従い、互いの出自も職業も厭わず助け合って生きてきた。
同時に俺はこうも言われた。
「ここはいつか取り壊される。だから若い世代のお前は外でも通じる生き方を身に付けなさい」
おかげで俺は極々一般的な教育を受けさせてもらい、経営学を学んだ。いまは「龍城幫」の会計を担っているし、外でもなにかしらの商売をやって暮らしていけるはずだ。
つまり何が言いたいかというと、俺は四仔が憎む黑社會というものを、真には理解できていなかったのである。
「困ったことがあったら何でも俺に相談しろよ」
新入りの四仔にそう声をかけたら、「黑社會に頼ることなんかない」と突っぱねられた。カチンときて、「龍哥哥がお前の居場所をつくってやったんだぞ」と言い返したところ、
「……龍哥哥には感謝している。身分証もここの医師免許もない俺を受け入れてくれた。だがそれと黑社會を頼るのは別だ」
意味がわからなかった。ここでは黑社會といえば龍哥哥なのだ。龍哥哥に感謝するということはつまりは黑社會を受け入れるということだろう。
四仔がなぜ黑社會を憎むのか、事情は薄らと把握している。黑社會の人間に痛めつけられ、恋人を日本に売り飛ばされたとかなんとか。
だけどそれは「龍城幫」がやったことではない。龍哥哥はそんな非道なことを絶対にしないし、いずれ跡を継ぐであろう俺だってそうだ。龍哥哥の義兄弟の虎哥だって。
黑社會は四仔の思うような人間ばかりじゃない。そうだ、今度俺たちと年の近い十二と引き合わせてやろう。そうすれば黑社會への偏見も薄まるはずだ。だから遠慮なく俺たちを、俺を頼ってほしい。城砦にいる限り、お前はもう過去に苦しめられる必要はない。俺が必ずお前を守ってやるから。
打ち寄せる波の音を聞きながら、指を失った右手を見つめていると、背後から「痛むのか」と声をかけられた。振り返らずに首を振る。
痛みはない。そう答えたつもりだったのに、四仔は許可も得ずに俺の手を取り、くるくると包帯を解き始めた。
「……黑社會の人間の治療なんかして、嫌じゃないのか」
ぽつりと溢した言葉を拾われ、「なにを今更」と鼻で笑われる。今更。本当にそうだ。油麻地果欄に城砦を奪われた今になって気が付いた。黑社會とはこういうものなのだと。
「哥哥は言ったんだ、俺に任せるって。俺がボスだって」
「そうか」
「だけど、俺は……」
龍哥哥を殺され、俺たちは城砦を追われた。今も城砦には多くの住民が取り残されている。大ボスから取って代わって龍頭となった王九が城砦で横暴を極めていることは風の噂で耳にした。つまるところ城砦というシマを取り仕切る存在が雷震東から龍捲風、龍捲風から王九へと代わっただけなのだ。黑社會とは暴力と恐喝で人心を掌握する反社会的勢力。そして政府の手が及ばない無法の地である城砦は、黑社會が喉から手が出るほど強く望む場所だった。
祖哥哥はいつも「信仔の好きなように生きなさい」と言ってくれた。きっと堅気の道もあると示してくれていたのだろう。けど、俺が好きに生きる姿を想像した先には当たり前のように哥哥が、城砦のみんながいた。近い将来、城砦が取り壊されたとしても、俺の好きなものは無条件でそばにあり続けてくれるものと思い込んでいた。
龍捲風の城砦支配が続いたのはひとえに彼が凄まじく強く、数多の勢力を牽制していたから。龍捲風を失ったいま、彼に代わって俺が城砦のみんなを守らなければいけなかったのだ。黑社會とはそういうものなのだから。俺が。なのに。
「助けただろう。お前は洛軍を」
新たに包帯を巻き直しながら、四仔が低く呟く。
「お前は龍捲風との約束を守った」
哥哥からの最期の頼みごとは、洛軍を逃すことだった。城砦の外へ洛軍を押し出したことで、外の人間に運ばれていくのを見届けた。だからきっとあいつは生きている。城砦のみんなは暴虐に耐えながらも、四仔は精神をすり減らしながらも、十二は片足を負傷しながらも、俺も。生きている。生きてさえいれば、龍頭としてまだやれることはあるはずだ。
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