龍兄貴に引き取られてすぐの信一の話【愛藍傘】
引き取られてすぐの頃、不安になる信仔と不器用な兄貴の話が書きたくて書きました。
祖哥哥は変わってしまった。他の誰も気付いていない。阿七だってわかっていないにちがいない。でも俺にはわかる。祖哥哥は俺を引き取った日から、俺を叱らなくなった。
物心ついた頃から龍捲風は城砦の誰もが尊敬する存在だった。俺もいつか彼のようになりたいと強く願っていた。ただ同時に、怒らせるととんでもなく恐ろしい人でもあった。けんかっ早くて、好奇心旺盛な俺が無茶をするたび、哥哥は俺の頭にげんこつを浴びせた。がつんと芯に響く痛み。げんこつは痛いし、お説教は鋭くて怖い。けど同時に、城砦のどこにいたって哥哥は俺を見てくれているという安心感もあった。
そんなお説教とげんこつを、もう半年も食らっていない。
「一緒に暮らそう、信一」
半年前。哥哥はそう言って俺の手を取ってくれた。城砦の子どもの一人としてではなく、義理だけど息子として。あの人は俺を迎えてくれたのだ。
叱られなくなったのは俺がこの半年で急速に成長して、モメ事をまったく起こさなくなったからか? というと、そんなことはない。相変わらず、城砦の子どもたちと取っ組み合いの喧嘩をするし、高いところによじ登って足を滑らせたり、入るなと言われているところに入って追い払われたり。以前の哥哥だったらスッ飛んできて怒鳴るようなことをいくつもやった。それなのに。
「無事か? それならよかった」
迎えに来た哥哥は毎回、怪我していないかを確認するだけ。無事ならおとがめなし。擦り傷があっても「気を付けなさい」と言って、静かに治療をするだけ。時には俺の代わりに喧嘩相手やその親に頭を下げることもあった。それでも俺を叱ってはくれなかった。
大事にされている。それはわかる。だけど、どこか距離もある。一緒に暮らすようになってこれまでより近くにいるはずなのに、なにを考えているかわからない哥哥のことを遠くに感じるようになった。
夕暮れ時。門限が迫るなか哥哥と暮らす家へと帰る途中で、口喧嘩をする親子を見かけた。まだ遊びたいと駄々をこねる子どもと、そんな子どもを「いい加減にしなさい」と叱りつけて腕を引く母親。次いで夕食を囲んでいるのだろう家から漏れ聞こえてきた、「これ、嫌い」「好き嫌いしないの」という会話。
瞬間。俺は駆けだしていた。迷路のように入り組んだ城砦の中をひたすらに走った。ともかく遠くへ行きたかった。哥哥に見つからないところへ。哥哥に迷惑をかけないところへ。
たどり着いた先は、使われなくなったものが雑然と打ち捨てられた場所だった。城砦の建物と同様、不安定に積み上げられた廃棄物の隙間に、体を潜り込ませる。ふだん子どもの俺が立ち入りを禁止されているエリアだとわかったが、構わなかった。
あたりに人の気配はなく、城砦の中とは思えないほどに静かで。まるで世界に一人だけになったかのような寂しさに襲われ、ぎゅっと膝を抱いた。
この半年間、ずっと考えていたことがある。哥哥はどうして変わってしまったのか。いや、そもそもどうして哥哥は俺を引き取ったのか。
考えられる理由は、哥哥が俺の父や叔父と親しかったこと。友人の息子を路頭に迷わせるわけにはいかず、仕方なく引き取ったのではないだろうか。亡くなった父と叔父に気を遣っていると考えれば、俺を叱らなくなった理由にも納得がいく。哥哥にとって俺は扱いに困る厄介なガキ。どこまでいっても俺たちは本当の親子にはなれない。
「信一!」
突然。空間を切り裂くように鋭い祖哥哥の叫びが聞こえたかと思うと、何かが崩れる大きな音が響いた。顔をあげようにも強く頭を押さえつけられているために上げられない。音の響きから周囲の廃棄物が崩れたのだろうことはわかる。しかし不思議と体に痛みはなかった。それどころか暖かくて柔らかいものに覆われている感覚がして、
「……大丈夫か、信一」
視界が明るくひらけたかと思うと、目の前に祖哥哥がいた。俺の姿を見て安心したように微笑む哥哥。なぜか髪が少し乱れていて、いつもかけているサングラスをかけていない。
ふと視線を向けると、彼の袖がわずかに破れて血が滲んでいて、足元に割れたサングラスが転がっていた。
「心配したぞ。お前が無事なら……」
「哥哥!」
弾かれたように叫び、突き飛ばす勢いで哥哥に抱き着いた。そうして、ぐちゃぐちゃな感情をほどかずにぶちまける。
「ちがうよ、ちがうだろ、哥哥……! 俺、門限を破ったよ。入っちゃいけないところに入ったし、あんたの大切なサングラスを壊したし、あんたに怪我を負わせた! ぜんぶ、ぜんぶ俺が悪いんだよ、哥哥!」
ごめんなさい。ちゃんと謝るから。だから悪いことをしたら、俺を叱って。俺を見て。
涙でぼやけた視界の先に、まっすぐ俺を見つめる哥哥の姿があった。哥哥はゆっくり俺を抱きしめる。
「信仔。お前の言うとおり、お前は門限を破った。入るなという危険なところに入った。そうして危うく大怪我を負いかけ、俺の心臓を縮み上がらせた」
哥哥の胸にぴたりとくっついた頬を通して、優しいぬくもりが伝わってきた。
「俺も謝らなければならない。お前を引き取ってから、親としての接し方にずっと迷いがあった。お前は聡い子だから、それを察していたんだな。不安な気持ちにさせて申し訳なかった」
そう謝る哥哥の瞳が揺れる。ああ、哥哥も俺と同じことを望んで、もがいてたんだ。もがきながらも突き放さずにいてくれたんだ。
そんな哥哥の思いに応えたくて、俺は言葉の代わりに、強く哥哥を抱きしめ返した。
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