城砦に来る前の四仔の話

 友人から密入境の誘いを受けたのは十月の中頃のことだった。誘われなければ、思いもつかなかったと思う。そんな大それたことは。

  入境後の成功譚は風の噂で時折り耳にしていた。界限街まで辿り着いてIDカードを手に入れ、贅沢な生活を謳歌する同胞たち。夢溢れる話に、若い俺たちは胸を躍らせた。

 「これからなにかと金がいるだろう?」

  友人のこの言葉が最後のひと押しとなった。生まれ育った土地に愛着がないわけではないが、この国の経済は先の革命の余波で疲弊しきっている。将来を誓いあった恋人がいる身としては、頼る親族のいないここでこのまま暮らし続けることに大きな不安があった。

  多少のリスクを負ってでも経済的安定が得られる場所へ移って二人で暮らしたい。そう打ち明けると、彼女も頷いて応えてくれた。

  十月某日。友人数人とともに蛇口港から海路での密入境を決行した。彼女以外は男だったため、交代で彼女をサポートしながら泳いで渡ることになった。

  だがしょせん付け焼き刃の長時間遠泳。無謀な挑戦の末、最終的に皆バラけてしまった。俺も彼女を守ることに精一杯で周囲に気を配る余裕などなく。決死の思いで泳ぎきったとき、そこに自分と彼女以外の姿はなかった。

 金も頼るアテもない。だが界限街を越えれば、希望はある。

 彼女を安心させてあげたくて、手を握り「大丈夫だ」と囁くと、彼女も「うん、きっと大丈夫」そう言って俺の手を握り返してくれた。

  当時の俺は本土で医師免許を取得したばかりの若造で、生まれつき体格にも恵まれていた。つまり自信と希望に満ちていたのだ。どこでだってなんだってできる。身分の保証さえあれば。

 抵塁政策が廃止になったという情報は、新界エリアに潜む蛇頭からもたらされた。こうなるともうどこにいようと自分たちは立派な逃港者である。

 唐突に現実を突きつけられ、頭を強く殴られたような衝撃を受けた。はじめから不法移民だという事実は変わらないというのに。ここに至るまで、まるで覚悟が決まっていなかったというわけだ。 

 当初の計画では入境處へ出頭ののち、香港在住の親族を辿って正式な居住手続きをとることになっていた。が、抵塁政策が廃止された今、のこのこ出頭すれば強制送還されるのは目に見えている。こうなったら警察に捕まる前に、居住の根拠となる親族を見つけなければならない。

 幸い、両親が香港出身だというアドバンテージが俺にはあった。きっとどこかに遠縁がいるはず。彼らを頼ることさえできれば。

 彼女が俺の手を取り、「大丈夫」と囁いてくれる。俺も「ああ、きっと大丈夫」と彼女の震える手を握り返した。一人では耐えきれない困難も、二人でなら乗り越えられる。

 俺たちは警察の目を掻い潜って夜の街に身を潜めた。昼は両親の名を頼りに親類を探し、夜は生活のために働く。低賃金の肉体労働職に就くこともできたけれど、彼女に「危ないからどうか極力外には出ないでくれ」と頼んでいたこともあり、二人分の生活費を稼ぐには夜職のほうが都合が良かった。

  ボーイ兼ボディガード。どちらかというと後者がメインだったかもしれない。尖沙咀の夜はモメ事が絶えなかったから。

 店で騒ぎを起こした連中を粛々と追い返す。抵抗するようなら少し痛めつけて。まさか幼少期に護身用にと習った武道がこんなところで役立つとは思わなかった。改めて丈夫な体に産んでくれた両親にも感謝する。

 荒事は苦手だったが、キャストを守るためには致し方ないと割りきった。相手が黑社會の人間だろうとそうでなかろうと関係ない。言われたことを言われるままに。そういう仕事。 

 「お兄さんさあ、田原俊彦に似てるって言われたことない?」 

 ある日、泥酔した客に絡まれた。 

 「似てると思うんだよなあ……うん、やっぱ色男っぷりがそっくりだ。なあ?」

 返事をしていないのにしつこくまとわりつかれて辟易する。ぶん殴って追い出してやろうかとも思ったが雇い主からの許可がおりず。ぐっと堪えていると、そのうち取り巻き連中が「飲み過ぎだぞ」と声をかけ、くだんの酔っ払いは引きずられるように退店していった。若くて顔も整っているのに、恐ろしく酒の飲み方が汚い客だった。

  帰ってから彼女に田原俊彦を知っているかと尋ねてみたけれど、彼女も知らなかった。 


  不安定ながらも彼女と二人、身を寄せ合って過ごす日々は満ち足りていた。どうにかこの国でもやっていけそうだ。そう思った矢先、蛇頭から探していた親族が見つかったという知らせがもたらされた。

  一方的に指定された日時と場所。なんの疑問も抱かずに明るい未来を夢想して、俺と彼女は無邪気に喜んだ。どこまでも短慮で、軽忽で、不見識だった。


  もし。もし少しでも蛇頭を疑うことができていたら。

  黑社會から恨みを買うような職に就かなかったら。

  もっとはやく密入境を決行していたら。 

 いや、そもそも密入境などしなかったら。 

 それらすべてに彼女を巻き込まなかったなら。

  俺は。彼女は。


  悔恨と罪悪の念は、身体中の裂傷よりも深く胸の奥に刻み込まれた。

  染みついた医療知識で重篤な創痍に適切な処置を施し、親譲りの頑健な軀体のおかげで一命を取り留める。皮肉な話だ。なにもかも。

  彼女のいない彼女と過ごした家へ帰り、床板の下に溜め込んでいた金を引っ掴んで外へ出た。二人の将来のための貯蓄は、もうなんの意味もなさない。

  彼女の行方の唯一の手がかりは、薄れゆく意識のなか耳にした「日本」という言葉だけだった。人身売買が目的のブローカーが彼女を殺すはずがない。彼女はまだ生きている。だからきっと生きてさえいればまた会える。生きてさえいれば。

  ああ、だけど。

 「……大丈夫」

  そう囁いた俺の手を、もう誰も握り返してはくれなかった。

あにま。

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